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*このレポートは11期生(平成14年3月卒業)のS君が自主的に提出してくれたものを
ほぼ原文のまま掲載しています。
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人間は自らが排出したゴミに悩まされるほどの豊かな物質文明社会を築き上げた。その原動力は「生産」である。
交通手段の発展が原料と製品の運搬、人の移動を拡大させ、生産を飛躍的に向上させた。
豊かになった人々は移動の自由と交通手段の私有化を求めて自動車に殺到し、
車を持つことと自由に走らせることで欲望を満たすようになった。
現代社会は「移動と運搬」の多くを自動車に深く依存する自動車社会である。
しかしながら自動車社会はこのまま成長を維持できるのであろうか。
自動車メーカがモータ・ショーで描いてみせた未来は本当に来るのであろうか。
世界は地球的規模の環境問題に踏み出しているなか、自動車社会の未来は明るいのだろうか。
自動車の誕生以来、とりわけ先進各国の戦後復興以来爆発的に続いた拡大基調はエネルギー危機と共に減退へ向かい、
誰もが自動車を乗り回せる時代は終焉を迎えるのだろうか。
自動車に関する大きな話題の一つが環境問題である。
'60年代から'70年代にかけて先進国を悩ませた「経済成長」とその副産物である「公害」のジレンマは、
法規制と低公害技術の発展により克服され、極端な地球的被害は減少した。
しかしながら自動車や工場などの単一の発生源から排出される環境汚染原因そのものは大幅に減少したものの、
発生源の多様化と多量化が地域レベルから地球レベルまでの広範な環境問題を引き起こすことになった。
これまでは環境汚染物質とは見なされなかったCO2までもが地球温暖化の原因物質として追求されるようになった。
汚染物質とその発生源が多様化・多量化したこと、
被害が途上国や多様な生き物を巻き込んでグローバル化したことが今日の環境問題の特徴である。
だが、「経済成長」と「環境保護」をいかに調和させるか、そのジレンマ構造は変わらない。
それどころか、公害が社会問題化した時代より、はるかに豊かで便利な社会を築いた現在、その根は深くなってしまった。
今日に至る経済成長を可能にしたのは戦後のエネルギー革命と称された石油だが、この石油の枯渇がいよいよ現実味を帯びてきた。
やがてエネルギー問題は豊かな社会を揺さぶるだろう。それは大量の石油エネルギーを消費する自動車を直撃する。
「経済成長」と「環境」のジレンマでさえ人間の果てしなき欲望の前には解決困難であるのに、
経済の維持や成長を前提とすることになるのだ。
さらに大量消費社会の象徴である自動車は、
「移動と運搬」で「経済成長」をはじめとするあらゆる社会活動を支える重要な交通手段だが、
その排出ガスや廃棄物は「環境」に負荷をかけ、台数の爆発的増加は「エネルギー」の枯渇を早める。
自動車にはこれらの難問に加え、金属資源の枯渇問題、いっこうに減らない交通事故などの問題が重くのしかかっているのである。
現在、地球温暖化防止などの国際的な取り組みや自動車の対策では環境問題が先行している。
このなかでエネルギー問題は、温暖化の要因とされるCO2や各種大気汚染物質の発生源として捕らえられており、
環境負荷軽減の観点からエネルギー転換が論じられている。
先進国の引き起こした環境問題は、高度に発達した経済から生み出されたもので、
これを支えたのは石炭・石油の安価で大量のエネルギー資源であった。
環境問題は人間の欲望に基づく膨大なエネルギー資源の使用の結果である。
現在の環境問題への取り組みは「持続可能な成長」が前提だが、
成長を前提とするエネルギーの供給量がなければそれはただの願望でしかない。
経済も環境もエネルギーに従属する関係である。
エネルギー供給が永続するのであれば、蛇口の絞り方や、蛇口から流れ出るエネルギーの使用方法を検討すればいいが、
蛇口から何も出てこなくなれば、使い道以前の話となる。
エネルギー資源が枯渇するに従って否応なく経済が縮小すると共に、
CO2排出も廃棄物も化学物質も減少し、環境問題は解決の方向に向かうだろう。
石炭や低品位の代替燃料に全面的に依存する分、環境悪化をもたらす危険性はあるが、
石油ほどの利便性と経済性を持ち合わせていないために、現在ほどエネルギー消費社会の維持は難しいと思う。
安定したエネルギー供給の確信が得られない現段階では、いずれ世界経済は縮小に向かわざるを得ないのではないだろうか。
現代文明の象徴である自動車は、同時に現代文明崩壊の特徴となってしまうのではないだろうか。
今日の自動車は、大気汚染をはじめとする環境問題の現況として捉えられており、一つの自動車の危機ではあるが、
これはエネルギー供給が続くと仮定した場合の話であって、本当の自動車の危機はエネルギー資源の枯渇化にある。
大きな政治課題に浮上した環境問題は、自動車のみならず人間の広範な生産活動の結果であるが、
自動車は消費社会の象徴であるだけに環境問題の元凶と見なされることが多い。
実際に地球温暖化の原因とされるCO2は、自動車から排出される分は国内の全排出量の17%であり、
国内で消費される石油の4割強が自動車用とであるから、自動車が環境の敵と見なされるのは当然なことである。
自動車が環境の敵と見なされるもう一つの理由は、自動車が移動発生源だからである。
自動車は排出ガスをばら撒きながら走り回る。
しかも振動と騒音を伴い、ときには人や自転車を跳ね飛ばしてしまう。
これに対して冷蔵庫や電子レンジ、パソコンはガスを出さないし、道路を走り回るわけでもない。
実際は消費の場から離れた発電所でしっかりガスを出しているのだが、そのことを感じないで済む。
もし電力と一緒に化石燃料の排出ガスや石炭の残滓、放射性廃棄物などが各家庭に届けられるような送電システムであったなら、
自動車だけが敵視されることもないだろう。
しかしながら、自動車が大気汚染の元凶であることには変わりがなく、しかも走り回らなければ用をなさない。
かくして鳴きながら走り回るキジは撃たれてしまうのである。
自動車の危機とはエネルギー資源の枯渇化であり、個人レベルでは乗用車の危機であるが、
広くは交通の危機、すなわち「移動」と「運搬」の危機であり、現代文明の危機なのである。
現在なすべきことは、エネルギー多量消費社会の構造をエネルギー少量消費社会に変えていく努力を始めることである。
仮に2050年頃にエネルギー危機が訪れるとすれば、約50年の猶予期間がある。
この残された時間のなかで、社会全体をエネルギー欠乏に対して強い体質に変えていかなければならない。
この体質強化のなかに交通の問題があり、自動車の問題が含まれているのだ。
新世代自動車によって環境改善が進むかどうか、エネルギー危機に対応した新しい自動車社会を担い得るかどうかは、
その車が宣伝通りの低公害性や脱石油性の実力を本当に持っているのか、
そしてガソリン車やディーゼル車に引けを取らない実用性を持っているかどうかにかかっている。
現在の成熟した自動車社会では、実用性はガソリン車やディーゼル車と同等であることが要求される。
だが、エネルギーの入手が困難になってくれば、多少難点があっても代替燃料車が選択される。
というより選択せざるを得なくなるのである。
自動車の生命線を握っているのは環境問題ではなく、エネルギー問題なのだ。
自動車危機への準備とはエネルギー供給の逼迫に対応できる省エネルギー化交通社会の建設であり、
過度のエネルギー大量消費構造からの脱却である。
直接の目的は石油に過度に依存した体質を改め、エネルギー危機に備えることにある。
省エネルギー・小エネルギー社会の建設は徐々に体を慣らしていくような段階的なものでなくてはならない。
一気に進めては混乱を招くし、反発も強い。自分とて自家用車とエアコンや家電製品を持つ人間である。
これをすぐに放棄するのは難しい。
着地点が見えているのなら、問題は激突を回避し、いかに軟着陸するかである。
そのためには綿密な調査と分析、周到な計画、そして大いなる決意、道程ごとのチェックと融通性のある軌道修正能力が必要である。
変更がなくてすむような精度の高い計画が望ましいが、不測の事態は必ず発生する。
変更を余儀なくされることを恐れてはならない。
問題とされるのは変更ではなく、目的が達せられるかどうかである。
自動車を削減すること、経済を縮小すること、これは核兵器削減交渉以上の難問である。
20世紀が核兵器削減交渉の時代なら、21世紀は経済とこれを象徴する自動車削減交渉の時代になるのではないだろうか。
自動車は現代文明と、これを支えた石油エネルギーを象徴するものである。
毎年1万人以上の死者を出しながらも手放せない、実用的な利便性と感情に訴える魔力を同時に与えてくれるもの、それが自動車である。
自動車の危機はエネルギー問題の一側面でしかないが、
現在のような大量エネルギー消費社会に代わる新しい社会の建設を始めることができるのか、
今その対処を考えなければならないときに差しかかっているのである。
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